二十歳のまとめのために書いた小説

二十歳のまとめのために書いた小説

疒の知

                   

                         

存在、それが何だというんだ?

僕は精一杯、存在している。           Ian Curtis

 私にとって、かれは高校で唯一の友人だった。

 四月、クラスメイトたちが色めき立つさなか、かれは頬杖をついて、ぼうと外を眺めていた。無骨さを感じさせない、なめらかな顎と指をしていたものだから、その様子には情感があった。春雨が盛の桜を散らす窓の向こう側に、ふと目を離すとかれは吸い込まれてしまっていて、晴れ間がのぞくと共に消えゆくような、そんな儚さがかれにはあった。たまたま席が隣だった私は、かれの秘密めいたところに魅入られ、声をかけたのだった。

 そんなかれが姿を見せなくなって一週間が過ぎようとしていた。連絡もまるきりつかない。不吉な予感がした私は、かれの家を訪ねることにしたのだった。

 家の所在は知っていたが、訪ねてみるのは初めてのことだった。私とかれはよく散歩をしながら語らったが、屋内に入るとしたら適当な喫茶店か、私の家というのが通例だったのだ。かれは学校から一駅ほど距離のあるアパートで一人暮らしをしていた。

 

 改めて見てみても、どこにでもありそうな殺風景なアパートだった。ポストで名字を確認すると、私はインターホンを押した。返事はなかった。もう一度押してみたが、やはり駄目だった。電気メーターの巡りも緩慢だった。どうしたものかと考えあぐね、私はおそるおそる、ドアの取手をひねった。ドアはあっさりと開いた。まるで扉の向こう側にいる何者かが開けたかのように。しかし部屋の中はしんとしていて、人の気配どころか、かれの生活を感じることすらできなかった。家具たちは使用感がなく、舞台のセットのようにただ整然と配されていた。あまりにも清潔で、あまりにも無機質だった。ここは本当にかれの住処なのだろうか?

 六畳間には簡素なテーブルセットとベッドがあるだけだった。テーブルの上には造花がガラス瓶に生けられていた。瓶の下には数枚の紙があり、紙面には文章が綴られていた。小さな文字で神経質に書かれているところもあれば、堰を切ったかのように殴り書きされているところもあるようだった。私はベッドに腰かけ、書かれた文章を読み始めた。

       

 

これから先、一度だけでいい、君は心から笑うことができるだろうか?

ぼくにはできない。ぼくは病んだ人間だ。去勢された人間だ。もはやなにもわからない。自分と物事とが、全く結びつかなくなってしまった。個々の事物の境い目はなくなり、ただぼんやりとした灯りとなって、ぼくの目の前を無関心に過ぎ去っていく。あまりにも目まぐるしく! ぼくはなにも為せず、横たわり、頭痛と吐き気に苛まれるばかりだ。

いや、こんなことはどうでもいい! ぼくの苦しみが君にとってなんだというんだ?

「人の気持ちになって考えなさい」、そうぼくは教わったが、これを愚直なまでに推し進めてみればいい、またひとり病んだ人間が誕生するだけなのだから。この道徳法則が意味することは、「人が苦しんでいるのだから、お前も苦しむべきだ」、こういうことじゃないか。これによって練磨されるのは鋭敏すぎる感受性なんだね! このすべての病のはじまりである感受性が。なぜ他人の苦しみを理解せねばならないのだろう?

こう言うと、眼鏡をしたさも立派な男がぼくを指さし、「お前は人でなしだ」と言うかもしれない。道徳の名の下に、この根拠のない道徳の名の下に、まるで自分が全体の代弁者になったかのような口ぶりで。なぜそうやってすぐ全体と自分とを結びつけようとするんだ? 一体、ぼくひとりと、その男ひとりと、人間全体の間になんの関りがある? そもそも全体なるものはあるのか? しかもこういう男ほど、人間はただ己が利益だけを追求する、機械のように単純な存在だと短絡的に考えているから、小賢しく、抜け目がなく、くだらない劣悪をなす! 勝手にすればいい!

ぼくにはなにも為せないと書いた。ぼくにとってのいまこの瞬間は、未来になにも結びつかない断片化された生だ。それなのに無数のいまこの瞬間へと絶えず投げ出され続けている。もう今を呼び起こす意欲も消え失せていく。死はずっと近くにあったんだ。ところで、人々が理性によって行為するのは、ある成果を得るために計画を立て、その計画の内に自身を拘束するのは、その成果を鏡として自身の存在を保証してもらおうとするからではないだろうか。ぼくがいなければこの文章がないように。ぼくなんてものは後から規定される幻影のようなものというわけだ。次の瞬間、本当にぼくがこれを書いているのか? 話を戻そう。どうやら人々は、意味を集積させていけば約束された未来にたどり着けると信じているようだ。ぞっとするような勤勉さで自身の無意味さからは目をそらしつつ、いまこの瞬間を砂上の楼閣にも等しい未来への手段としている。すると未来は永遠にやってこないし、いまこの瞬間にはなんの価値もないのでは? いまこの瞬間は生を引き延ばすための手段というわけだ。死は目の前のテーブルの上にあるというのに! 

手段だけが発達してなんだというんだ? 生には目的が欠けてしまっているのに、ついに人々は自身を手段のための手段に、物質のための物質になり変わろうとしている始末だ。神は死んだ物質になってしまったのか? 

もし仮に目的が、人類全体に普遍的な真理が見つかったとして、それが実現し、それによって謎がすべて解き明かされ、絶対の秩序ある世界が生まれ、そこで人々が笑い合い、手を取り合っていたとしても、ぼくはそんなもの決して認めない。だって全てがわかりきってしまっていたら、あとはもう惰性があるだけじゃないか。そこではぼくの意識なんて全然いらないわけだ。だが実際、人々は永眠させてくれるスイッチを完成させるために魂を捧げているかもしれないのだ。

この生がよく眠るための、虚栄心を満たすためだけの、つまらない人形劇にすぎないというならば、あの夕映えが、あの真っ赤に染まる空が炎そのものとなって、一切を焼き尽してしまえばいい。それも一瞬のうちに!

またぼくは我を忘れていたようだ。なにを書いたかはっきりしない。君はここまで読んで、ぼくの目的がまるでみえないものだから、困惑しているに違いない。ぼくは自分に苦痛を与えたかったのだ。ところで書くことは醜態をさらすことだ。ぼくはここまで書くのに恥ずかしかったし、苦痛でならなかった。文章にしてみたらぼくの抱えているものなんて全てつまらないものに思えた。いや、しかし、だからこそ、ぼくは下卑た笑みを浮かべてしまう。ぼくのような人間にあっては自分に苦痛を与えることは無上の快楽なのだ。苦痛の奥底には暗い快楽がある。だって、苦痛こそが自意識を呼び起こすのだから。苦痛だけが自分は死んだ物質ではないのだと教えてくれるから。もし苦痛がなくなってしまったとしたら、ぼくらは自意識を永遠に失ってしまうだろう。だからぼくは体中の皮膚という皮膚に爪をつきたて、肉をえぐり、口腔に両の手をつっこみ、穢れた臓腑を地面にぶちまけてやる。かの善人の中の善人であるソクラテスが臨終の際には己が本心を隠し通すことができなかったように(かの善人は生きることが病気だと考えていた)、病的なほど道徳の人であるぼくがこうして本音をぶちまけても一向にかまわないだろう? (道徳的な人物が僭称するだろうか? おかしな話だ。)

君の目がこの汚濁を雪ぎ、なにか純粋なものを抽出してくれればいい。いや、そんなことはどうでもいい。ただ笑いのためだけに。

ゆめにっき

ぼくが物心つく頃には父親がなかったが、父の姿には覚えがあった。

赤子のとき、その光景をどのようにして目の当たりにしたのかいまとなっては見当もつかないが、蜃気楼を眺めるかのようにそれを見たのである。父はらんらんと輝く目を虚空に据え、呪詛のような音を口からこぼしていた。足元にはうずくまり震える母の姿があった。体をまるめ、健気に的を小さくしていた。母を見、父は目を吊り上げ、黄色い歯を剥き出しにした。ガラスが砕け散り、悲鳴と、気狂いじみた笑い声が響いた。

そんな父はぼくが三つのとき、酒を前後不覚になるほど煽り、トラックに轢かれて死んだ。

母は父からの度重なる暴力により精神を病んでしまっていた。いつも眉間を神経質そうに歪め、恐怖を直視しているかのようだった。ひとりになることを極度に不安がり、予期せずぼくの姿が見えなくなるとヒステリーを起した。

母を不憫に思い、ぼくは自分の中の父が、つまり自分の中の悪が母を病気にしてしまったのだと信じ、道徳的になろうと決心したが、ぼくの血は燃えるように熱く、身を焦がすほどだった。自身の内には手に負えない爆発物があるのだと悟ったとき、ぼくは途方に暮れ、人前に出ることを極度に怖れるようになった。野をひとり歩くことを好み、そこで女郎蜘蛛に蝶が捕食されるのを見かけると、ぼくは蝶と自身とを重ね、この盲目の醜女の毒液によって自分が溶解していくさまを妄想し、恍惚とするのだった。

母は人目を忍び、家でピアノを教えることだけを生業としたが、潤沢な保険金があったのでそれでなにも問題なかった。生徒は少女しかとらなかった。母が教える間中、ぼくは居間に閉じこもり、こだまするピアノの音に耳を傾けるのが常だった。

ある夏の日、放課後図書館で時間をつぶし、まっすぐ家へと帰ると例のごとく音楽が玄関にこだましていた。居間へこもろうと引き戸を開けると、テーブルにつく少女がぶどうを食べているところだった。ぶどうの露と、彼女の口もとが色っぽかった。見慣れない制服を着ていて、また自分よりも大人びていたから、高校生だろうなと推量した。彼女の目は夢で見た父親と同じ輝きがあった。ぼくは動揺しながらも、どうしようもないほど彼女に惹かれている自分がいることもわかっていた。ふたりでなにげない会話をした。ぼくは心ここにあらずで、彼女の瞳に移ろう複雑な幾何学模様を眺めていた。

ピアノの音は止んでいた。彼女は席を立ち、つぎの週はすこしだけ遅く帰ってきて、とそう耳元で囁き、部屋を後にした。

訝しがりながらも、時間をずらして帰宅することにした。家には音一つなかった。いまは彼女が指導を受けている時間のはずだから、これは異様なことに思われた。荷物をわきへと置き、ぼくは他人の家で盗みをはたらくかのように家へと入った。すぐ突き当たるピアノの部屋からは人の気配がした。扉に耳を押し当ててみると、ぴちゃぴちゃと、湿った音がした。ぼくは立ち尽くすばかりだった。扉の奥では一体、なにが起きているのだろう? 向こう側を垣間見ようと扉に手をかけた、瞬間、扉の奥から足音がこちらへと近づいてきていることに気がついた。焦燥し、部屋をまたぎ、とっさにクローゼットの中へと身を隠した。

クローゼットの中は母のよそいきの服でしきつめられていた。なじみのない匂いが充満していて、自分は見知らぬ女性の胎内に戻ってしまったのだと思った。暗がりの中、明かりに目が吸いよせられ、外界を覗くような形となった。

母が彼女と肌を重ねていた。彼女は母に覆いかぶさり、傷口をひろげるかのように、裂け目に剛直を鋭く打ちすえていた。肌と肌が衝突し、波打ち、飛沫をあげた。母はぐったりとして、青ざめ、息も絶え絶えだった。ぼくは頭痛と吐き気がし、やめてくれ、と切実に、ただ切実に声なく叫んだが、目はその光景に釘付けにされていた。母の反応が鈍くなりだすと彼女は殴打し、首筋に爪をたて、いっそう動きを激しくした。脚の筋肉がこわばり、黒い髪が振り乱れた。視界は涙で滲み、剥き出しの命ふたつがまさにひとつになり、消えていくかのような錯覚をぼくにおぼえさせた。

クローゼットを出ようとしたが、どうしてもできなかった。ぼくは彼女を呪うと同時に、なんて神的なのだと祝福したいくらいだった。一体、意志の強さを伴わない悪行が存在するだろうか? ぼくには、決して、できそうにない。なにかを傷つけようとすれば母の歪んだ顔が浮かんでくるのだった。彼女はいかにも楽しそうで、青春そのもののようだった。

激情の矢が分厚い壁によって屈折し、ぼくは自身と母とを重ね合わせ、身の上にまたがり乳房を揺らす彼女の姿を幻視した。刃に貫かれ、甘い痺れとともに死ぬと同時に、自身の存在の血潮が彼女を包み込むとふたたび生きるような、そんな感覚をぼくは覚えた。涙と汗とにまみれ、頭が真っ白になり、気がつくと吐精してしまっていた。はじめてのことだった。意識は螺旋をえがくように失墜していき、ぼくを泥のような眠りに誘うのだった。

それからというもの、ぼくは彼女に跪き、辱めてくれるよう乞うた。恥部を露出させ、彼女は口づけするよう命じるのだった。太股の白い肌が赤く充血したそれを際立たせ、あまりに蠱惑的だった。彼女は気まぐれなものだから、脱ぎ捨てた制服をぼくに着せ、化粧をほどこし、仕上げに陰部にリボンをあしらった。恥辱にまみれ、我を失ったぼくは、かえって自分は無垢な少女なのだと陶酔し、役を演じることができた。そうしてひとりの少女の消滅をずっと近くにぼくは感じるのだった。

ある夏の日、ぼくらは彼女が通う高校を訪ねた。休日のためか人気はなく、廊下は冷え冷えとしていた。外に出ようとぼくらは屋上を目指すことにしたが、扉の前には机と椅子が高く積まれていた。ぼくらはそれらを除け、扉を壊し、やっとのことで外へと出ることができた。地面にはコンクリートの破片が散乱し、そこに苔の緑が交っていた。柵がないようだったのでぼくらは際へと赴き、そこに腰かけ、足を宙にぶらぶらと遊ばせた。そうして下界を見下ろしてみた。風が運んできた草々と土と、それから樹液の香が、ぼくに女の叢を想起させた。熱に浮かされ、交差点を見やると、車が衝突し合い、大勢の通行人が巻き込まれていた。あるいはそれは陽炎のゆらめきなのかもしれない。ただ蝉がいつまでも死につつ生を称えていた。ぼくらは太陽になったかのように、それら一切を真上から照らしだしていた。

「ぼくの目を犯し、脳に精を吐きかけておくれよ。」

恍惚としていて、そんな途方もない言葉が口からこぼれていた。

彼女は微笑し、すくと立つと、両手をひろげ、身を投げた。伸ばした手はむなしく空を切った。落ちゆくふたつの目はぼくを閉じ込めてはなさなかった。おぞましい笑い声がいつまでも反響するようだった。頭が砕け、花が咲き乱れた。血だまりは十字架をかたどり、女を磔にしていた。女の死体は男根を雄々しく屹立させ、まさに太陽を貫こうとしているようだった。太陽は血のような光を降り注ぎつづけていた。

もはや立ち上がることすらできなかった。うだるような暑さの中、ぼくは寒さで震えていた。彼女の瞳の中には自分がいたものだから、あのとき落ちたのは自分であったし、死んだのも自分であるようにしか思えなかった。じゃあ、いま考えているぼくはなに? ぼくはだれ? にげだしたかった。でも、いったいどこへ?

どこかの通りにいた。無数の灯りがなにかをしゃべりながら通り過ぎていく。すりきれていく。ショーウィンドウによりかかるとそこには見知ら … … … … … …

… … … いつの間にか眠ってしまっていたようだ。ベッドから起き上がるともう夜が更けていた。かれの部屋を後にし、私は夜の街をさすらった。灯りが溶けて混ざり合っていた。歩は私を廃ビルへと運んだ。私とかれはよくこの建物に忍び込み、夜景を楽しんだものだった。

屋上には人影があった。影は両の手をひろげ、まさに身を投げようとしていた。私はとっさに駆け出し、影の腕をつかんだ。すると影は私の腕をつかみ返し、ぐっとおそろしく強い力を込めた。

落ちゆく私を影が見つめていた。天上からはおぞましい笑い声が響いた。つぎの瞬間に訪れる死を私は認めることができず、頭が焼け尽きるほど回転し、これまでのことを延々と繰り返して見せた。笑い声が止むことはなかった。  

(おわり)

まぎれもない黒歴史
感想を書かれると死ぬんご(うれしはずかしくて)

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コメント

  1. 最初はくどいと感じたが、読み進めるうちに、視点が私から彼に替わる頃にその病的な世界へ引き込まれた。
    彼の情緒、衝動、生立が生々しく樟脳の薫りとなって鼻腔を貫く。
    黒い、青色文学。

  2. @逝きだおれ 
    読んでくださってありがとうございます! 手紙のところは自分が学んだことを無理やり書いたので、相当テンポ悪くなってしまいました…
    ゆめにっきからは書く方もだいぶテンポ良かったんですけど。
    楽しんでいただけて幸いです!

  3. 素晴らしかったありがとう
    月並みだけど、手紙のところと屋上でのかれの台詞がすごく好きです。

  4. @トカゲ先生 
    読んでくれてありがとう先生!
    最初の方くっそ読みにくかったと思うけど付き合ってくれてありがとやで。
    いま考えると読まれるのくっそ恥ずいけどこれが全力だからしょーがないやで。
    先生もなんか書いたら読ませてね!

  5. @トカゲ先生 屋上のとこのセリフは、目(認識)と脳(理性)を壊して、って意味合いをこめました

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